後見人としての成長

こごみをゆでて家族で食べた。私は料理は得意ではないが、作れるものが徐々に増えてきている。特に春に旬を迎える食材が多いのに気が付く。

春は誰にとっても、気持ちがやわらぎ、活動を起こしたくなる季節である。冬は、眠りを連想し、眠りは死につながる不安があると学んだことがある。そのために子供はなかなか一人では眠れないのだと。その冬から、抜けだした春に、希望に充ちた感情が生ずるのは当然のことと思うようになった。

こごみのことである。ある中山間地にすむ、高齢の被後見人がうまいものがあると一緒に里山に行き、料理方法を教えてくれた。自生している場所の特徴、採り方、洗い方、調理方法、保存方法と事細かく教えてくれる。知識を伝達することを発達段階する年代と理屈くさいことを時折思いながら、その生活に根差した知恵を聞くことにのめり込んでいった。

ただ採って、食べる行為ではあったが、次の年には、誰と採ったか、どんな思いで採ったか、またその時の別なエピソードなど、たくさんのことを学びながら、食べるところまで、寄り添うこととなった。このひともそのようにして、覚えてきたのだと理解することができた。

また、別の被保佐人の父親は、訪問した私に、本人と採ってきたというさまざまな山菜を見せて、そして同様に調理法、食べ方を教えてくれる。なかでも、山菜ではないのだが、土手に自生しているイタドリという草をたべることは驚きがあった。酸っぱい味のその草は、適度なゆで加減がやはりあり、とてもおいしかった。まさに自然から頂く味と、本人と一緒になって感じることができた。最初の被後見人との違いを考えた時、父がかわらず息子にこの様な味を食べさせていってほしいとの私への想いが深く感じられたことだ。

仕事のエピソードもそうであるが、食べ物のエピソードもまた、その人を語るうえで欠かせない人生の重要な要素となる。そんなやりとりを毎年繰り返していくうちに、人としての成長を与えてもらう重要な交流と感じられるようになっている。ただ伝統的な視点をもったというだけではなく、食べ物を通じた対話の仕方を体得しながら、他者の人生を自分に取り込んでいると今は言語化できる。そんな人としての成長をさせてもらえる後見人としては、春は具体的にわくわくすることがあるとても嬉しい季節となっている。

構えて自分の家でもやろうというのではなく、被後見人等と一緒になって同じ季節を楽しみ、そしてまた人に伝えていくことは、代理人やら支援者との関係はいっさいなく、生活者としての何気ない一体感だなと思い出す程度のこととなっている。

こごみは妻にてんぷらにもしてもらい、子供たちにこの話をしながら食べたいと思う。

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