仙台七夕・宮町通り七夕

 先日、商店街振興組合より七夕飾りを出さないかとのお誘いがあった。仙台七夕にあわせて、仙台駅北側の花京院を入り口として、東照宮神社までを結ぶ宮町商店街に飾られる地域の七夕様である。仙台七夕は、8月6日から8日まで市中心部アーケード街で行われるのだが、それを盛り上げ、または負けじと、力のある商店街を中心に市内のあちこちで毎年飾られている。

 当事務所は、地域の生活者に近い視点で、社会福祉士が行う実践のため、商店街振興組合に入会をした。そのいっとう最初の催し参加としては、とても華やかでやりがいのあるものと考え、行動することとした。

 組合から、骨組みを借りて意思表示をしたものの、業務に押され、なかなか、お花紙やその他の材料を購入しに行く暇が持てず、日にちばかり過ぎて、だんだん焦りや困り感が湧いてきたことに気が付き、なんとかしなければと計画を立てることにした。

 同級生の家が商売をしていて、七夕の時期が近付くと店員さんや、おじいさん、おばあさん、子供が参加して、みんなで花を折り、折り鶴を折りしているところに、遊びに行き、その地道な作業に大変だなと心底思っていたことを、ここにきて思い出した。

 焦る気持ちから、教えてもらった七夕材料の売店に、仕事途中に立ち寄ってみると、隔日しか営業しておらず、なかなか手が付けられずとにかく困ったという気持ちになってしまった。後日、妻に頼んでも、空振りでやはり成果がえられず、三度目の正直でようやく、本日材料購入にたどり着くことができた。

 その売店は、外観からは分からないが畳敷きとなっていて、靴を脱いで、お茶飲みテーブルがある中心部に招かれ、どのようなものを作りたいか、膝を寄せて話をしながらゆっくりと決めていく商売の仕方であった。おそらく、着物を仕立てるため反物を購入し、採寸などして完成に至る呉服店の商売はこんなだったのだろうと、ちょんまげの時代に思いをはせるなど、そのインパクトに私自身も脱線ぎみの思考となった。

 すごいところに足を入れたとの気持ちも沸き起こったが、そのあとの、女将さん?と店員さん?の掛け合いのなか、何のイメージもなかった飾りが、ひとつひとつの部品のおすすめをもらいながら、そして、説明が面倒だと思ってか、その場で作れるものは簡単にこしらえてくれながら、いつの間にか必要な買い物はすべて終えることができていた。一見、はちゃめちゃなことを言い、ふざけあいながらのやり取りに見えて、客の要望をじわじわと聞き出し、そして満足感の高い買い物をしたとの気持ちにいつしか、もっていかれていたことに気が付き、このおばちゃん達はプロだと心底思った。

 冒頭にあるとおり、仙台では同時に七夕があちこちで開催され、短期間のうちに、個性的な飾りつけを行おうとする商店主等がたくさん売店に訪れる。それを2、3人のおばちゃんでさばくのだから、クレームを受けている暇はないし、ましてや追加購入等でなんども同じ客が来ても、入る居場所もないくらいものに溢れた店内のため、確実に1度対応した客はしっかりと品物を持たせて帰しているのだと考えることができた。

 5号のほねぐみには、花が80個、花は1個につき5枚など、長年の経験でそのくす玉にあわせての吹き流しの長さや、つなぎかたはこうだと、すべて示してくれた。時折、鶴は何列ぶら下げたいの?など無茶ぶりはあったものの、ああ自分でもなんとかやれそうな気がしてきたとの思いを抱いて帰ることができるようになった。

 今回、伝統七夕を作る超初心者としての行動で、部品の購入一つでも社会から個人に対して当たり前に行われてきた、エンパワメントであったと理解することができた。これは本当によい経験であったと思う。このような体験が個人ごとにもっと増え、つながりを作っていくことが、地域づくりであれば、それこそよいと感じた。もはや完成した気持ちでいるが、これから数百個の花や鶴などを折ることを忘れないようにしたい。この気持ちがまずは、事務所内、家族内で共有でき、完成に至らせなければならないところである。

 この経験で思ったことは、先を見通せた時の安堵感と、自己効力感を得られる関わりが、福祉以外の場面で実感できたことである。昔はよかったとよく耳にするが、その一つがこの、入ることに不安もあるが、人の中に入ることで知識が身に入って来たり、その行いの良い悪いを、優しく口伝えで教えてくれることにあるのだと実感することができた。まさに実感なのである。

 いつかまた、恩人である、あのおばちゃんたちのスキルを今度はもっと余裕をもって、インタビューしたいと考えている。

宮町商店街振興組合に加入

 エンパワメント後見事務所は、仙台東照宮神社のお宮町である、宮町商店街のなかにある。お宮町と呼ばれる縦長の商店街は、さまざまな業種が存在し、低価格の電力供給やネット環境整備など、新しい取り組みも行っていて、とても活気がある。お宮町は商店だけではなく、大きなエドヒガン桜がシンボルの東六番町小学校を中心として、地域住民のつながりを深める音楽祭や祭りなどを行い、その結果として子供が安心して歩ける環境ができている。

 ソーシャルワーカーとしては、地域をよくするとの使命感で行動することが多いと思われるが、逆にこのおだやかで、活力がある環境の力を借りて、試行的に新しい取り組みができないかとの気持ちが前からあった。

 エンパワメントが運営する、写真療法の部門では、市民向け・小学生むけ写真教室を開催してきたが、宮町では市民向けの写真撮影ワークショップをお店の協力を得て、店内でモデル撮影をさせてもらうなどして行い、知らない人同士がカメラにより交流を深めることができた実績がある。

 商店街振興組合には、病院なども加入し、一般にいう商売だけではないつながりがあり、情報発信も行われている。後見という一般には良く知られていない分野を業務とするエンパワメントとしては、商店街店主からの理解がひろがれば、地域にも何をする仕事なのか理解が広がるのではと考えている。

 商店街振興組合には、まちゼミという、開業者がどんな仕事なのかレクチャーする企画が毎年行われているようで、知名度の低い、社会福祉士、成年後見人が知られる機会になればと期待している。力を借りる一方で地域から頼られるような、存在感と機能が発揮できたらとの目標を考えているところである。

後見人としての成長

こごみをゆでて家族で食べた。私は料理は得意ではないが、作れるものが徐々に増えてきている。特に春に旬を迎える食材が多いのに気が付く。

春は誰にとっても、気持ちがやわらぎ、活動を起こしたくなる季節である。冬は、眠りを連想し、眠りは死につながる不安があると学んだことがある。そのために子供はなかなか一人では眠れないのだと。その冬から、抜けだした春に、希望に充ちた感情が生ずるのは当然のことと思うようになった。

こごみのことである。ある中山間地にすむ、高齢の被後見人がうまいものがあると一緒に里山に行き、料理方法を教えてくれた。自生している場所の特徴、採り方、洗い方、調理方法、保存方法と事細かく教えてくれる。知識を伝達することを発達段階する年代と理屈くさいことを時折思いながら、その生活に根差した知恵を聞くことにのめり込んでいった。

ただ採って、食べる行為ではあったが、次の年には、誰と採ったか、どんな思いで採ったか、またその時の別なエピソードなど、たくさんのことを学びながら、食べるところまで、寄り添うこととなった。このひともそのようにして、覚えてきたのだと理解することができた。

また、別の被保佐人の父親は、訪問した私に、本人と採ってきたというさまざまな山菜を見せて、そして同様に調理法、食べ方を教えてくれる。なかでも、山菜ではないのだが、土手に自生しているイタドリという草をたべることは驚きがあった。酸っぱい味のその草は、適度なゆで加減がやはりあり、とてもおいしかった。まさに自然から頂く味と、本人と一緒になって感じることができた。最初の被後見人との違いを考えた時、父がかわらず息子にこの様な味を食べさせていってほしいとの私への想いが深く感じられたことだ。

仕事のエピソードもそうであるが、食べ物のエピソードもまた、その人を語るうえで欠かせない人生の重要な要素となる。そんなやりとりを毎年繰り返していくうちに、人としての成長を与えてもらう重要な交流と感じられるようになっている。ただ伝統的な視点をもったというだけではなく、食べ物を通じた対話の仕方を体得しながら、他者の人生を自分に取り込んでいると今は言語化できる。そんな人としての成長をさせてもらえる後見人としては、春は具体的にわくわくすることがあるとても嬉しい季節となっている。

構えて自分の家でもやろうというのではなく、被後見人等と一緒になって同じ季節を楽しみ、そしてまた人に伝えていくことは、代理人やら支援者との関係はいっさいなく、生活者としての何気ない一体感だなと思い出す程度のこととなっている。

こごみは妻にてんぷらにもしてもらい、子供たちにこの話をしながら食べたいと思う。

法人委託研修(権利擁護)

 先日、複合型の施設を展開している法人から依頼があり、内部研修を行った。前回、権利擁護研修を行った際、研修企画者側、参加者とも権利擁護のイメージが広くあり、概要を2時間で説明することに難しさを感じていた。あわせて権利擁護は後見制度の事だけ指すわけではなく、また、高齢者の施設研修だからといって、高齢者だけの権利の視点のみ伝えることには、不足と感じていた。本人を取り巻く環境についても理解的に対応できるようにするには、児童のことも、障害者やDVのことも知って、全体を見る力、気づく力が研修により養われればとの想いがあった。

 これは、私自身が虐待対応や後見人としてわらでもつかみたい想いとなっているとき、純粋に同じ視点や心持で支援に参加してくれた方があり、もっと同様の人材が地域でふえたら、小さくても幸せが広がるのではと考えたことにつながっているのだと思う。

 今回は、短時間の知識詰込み型ではなく、視点に火をともす研修にしようと考え、後見制度、虐待は同一ではなく区別されるものと説明し、量を減らし、権利とそれを擁護する「やさしさの視点、関わり」についてをメインとした研修デザインになった。

 身近な権利、そして人としての成長や欲求、それを基盤とした信念や物語が意思決定の重要な基盤となっていることに時間をかけた研修の流れとなった。利用者も支援者自身も同じ人としての地続きな存在であり、同じような自分の中にある成長の歯車に動かされ、選択や実行の良否などで悩んだり、達成感をもって人生を歩んでいることを扱った。

 時間に追われても、同じ関われる時間でも適切で質の良い対話により、本当のニーズを掘り当て、それを実行できるようにし、チームをそのニーズで縛って協働できたとき、困難な中にある本人は、初めて行動を起こせるものと考えている。その感情や発達、物語を扱う関わりを「やさしさの関わり」とした。やさしさの関わりを基盤としている施設では違和感のある行動、つまり不適切な行為はすぐに目立ってしまう。

 また、スタッフ自身もそれに巻き込まれ、職場からやさしさの関わりを受けることにより内観が働き、自身の成長も意識した関わりを持てるようになる。結果仕事への愛着、満足につながり、仕事にもっとコミットし成長への階段が上がれるものと説明させて頂いた。介護の仕事は、仕事の質と介護士自身の心的成長が密接であるため分けて考えるべきではないと今回の研修をつくるうえで改めて感じた。

 今後もご要請があれば、その職場の課題にあわせ、法定研修の企画実施等をオーダーメイドで行っていきたいと考えています。ご要望があればお気軽にメールBOX等へ連絡ください。

成年後見人への支援・アドバイス業務

 先日、ウイルス性胃腸炎にり患した。手洗い、うがいは神経質に行っていたつもりだったが、実際に発症してしまったのだから言い訳を積み重ねるだけとなる。困ったのは、被後見人に関係する動かなければならない仕事が予定されていることである。

定期の受診の付き添いについては、申し訳なかったのだけれど、ケアマネ―ジャーに代行して頂き、入院中のかたの医師の説明、今後の検討の会議は3日程度先延ばしとして頂いた。人に移るかもしれないと考えられる疾患に感染すると、とにかく迷惑をかけてしまう。 只々早く治さなければ何もできないと布団に入って回復に努めた。

今回は代行や延期が可能な予定ではあったが、生活者である被後見人等を援助する仕事はとにかく突発的な出来事、動かせない予定などがあり、病気になっている暇はない。

また、後見人等が感染症にり患することのほかに、被後見人等が家じまい、引っ越しなどで、後見人ひとりではやりきれない業務が発生することがある。引っ越し業者に頼める潤沢な資金があったり、支援チームに無理言って手伝って頂き、完了できる規模であればよいが、そうとも限らない。一人で車でしこしこ運ぶこともでてくる。

今までの様々な被後見人の対応から、同じ後見人のなかまへの支援として、エンパワメント後見事務所では、後見人活動協働支援業務として、病気や出張時など不在時の代行訪問、引っ越し時の搬入出などの協力をその他の事業として行っている。電話で連絡をとりながらの代理委任が可能な範囲での代行と、引っ越し業者ではないので、できる範囲での一緒にものを運ぶ手伝いである。相互協力の考えであるので、今後は参加したい後見人がいれば、申し出て頂き、そのスケールが増えれば対応力も大きくなると考えている。

どうしても誰かに行ってもらいたい状況があったら、ご連絡ください。現状では1時間1,080円を予定している。また、SVにまで至らない程度での後見人等からの相談も随時お受けしている。

090-1374-5600 手伝いが必要な内容をお知らせください。

写真療法の効用とSW的活用の視点

福祉まつり「ウエルフェア2018」(障害者週間記念式典)に参加した。今回は一般参加ではなく、被後見人(以下、本人という)の補助としての同行である。私が研鑽の一つとして行っている写真療法の番外編として、本人が撮影した写真を障害者の写真コンテストに応募したところ、ビギナーズラックもあったのかうれしいことに入賞したため、表彰式に参加となった。

今まで、カメラを触ったことなど無かった本人ではあったが、知的な課題等があっても、物おじしない性格が後押しして、お世話になっているケアワーカーさんを「お世話になっている人」という視点で撮影し、温かみのある写真が撮れた。

言葉の引き出しが少なかったり、話そうとしても発声までの過程でなかなか会話まで上がってこなかったりするかた数人に、写真療法の知見を活用して、言語化や想いの共有をすることで、支援の手がかりやほかの場面でのコミュニケーションや行動の広がりを期待して行ってきた。何を撮ったのか、なぜ気になったのかなど、撮影後の対話がとても重要で、驚きが度々ある楽しい時間でもある。写真には投影性があり、無意識下で自分を重ね合わせた被写体を撮るという部分については、分析的な視点は深めず、本人がどうとらえているか、湧き上がってくる言葉を拾い、それを様々な生活場面で、よい方向に促進させるのが私の立ち位置である。

開始当初は、写真の技術を高めようとしたり、義務的に撮らせようとしたりと、口うるさくなる家族や援助者にしっかり対応したり、補助的に好き嫌いシートを作成して、無理に嫌いな被写体(場所など)選ばないで済むことも検討した。

本来、グループワークで行われる写真療法を、本人たちと私の時間制約や撮りたいものの都合から、必要なエッセンスを加えたり、削除したりしながら続けてきたため、手順を厳格に守って行っている先駆者や治療目的の療法家には、注意を受けるかもしれないが、自主性、回避性という基盤となることへの配慮だけはしっかり心に止めて行ってきた。

そんなこんなで、応募した方みなが受賞となった。タイトルも本人が支援者と相談して決めたもの、撮影意図も撮影後の対話、フィードバックから拾い上げたものを代筆して提出した。

正直なところ、受賞後の対応は具体的には考えていなかったため、支援者や施設で、ちょっとしたうれしい騒ぎとなった。レクの時間を使い、展示会場まで作品を実際に見に行ってくれたり、表彰のためのおめかしをどのようにしようか話し合ったりして準備された。おひとりは、在宅酸素を始めたばかりであったので、ボンベの手配などもあった。

写真撮影が今回のうれしいばたばたや、ちょっと大変だったがお祝い膳も外食できてたことにつながり、自分の撮ったもの、その気持ちが周囲に影響を与える力があることに、本人たちは、ほんのり気づかれたようである。撮れた写真を評価的に扱わないという部分に、今後の関わりに課題は残ったが、写真のミクロからマクロ面までひっぱる力を私自身感じ取れた、楽しい年末の思い出となった。

私の支援方針は理論や療法を援助計画に導入するなど、ミクロ面に注力することで、エグゾ、マクロへの効果を考えていくことである。写真療法もその一つで、今後は個別支援に留まらず、写真療法家協会の実施手順を維持した療法に注力し、小グループでの実施も考えている。ボランティアなど一緒に行ってみたいかた、導入したい施設があればご連絡を頂ければ嬉しい限りです。

身上保護(監護)について思う。

最近、身上保護(監護)¹に関係する調整ですっきりしないことがあったので、書き留めて整理することとする。それは、被後見人を入所させてもらう流れとなっていた施設のインテークワーカー²から初めての電話があり、そのなかで、私のことについて「身上監護を行わない方針というか、信条で対応されているということですね。」と言いきられたことにある。いつもであれば、施設の相談員から身上監護とのワードを聞いただけで嬉しく(知っている!と)なるのだが、ゆっくり話せない場面で、携帯電話で丁寧に否定することもできないまま、後日入所は受け入れ難しいとケアマネージャーに連絡があり、御縁はそこで終わってしまった。(最終的には、別の安心できるところに入所できたので、ケアマネージャーには心から感謝です。)

内容は、施設で発生する色々な状況において、「受診は毎回連れて行ってもらうことでよいでしょうか。」との問い合わせである。私はうかつにも、正直に「施設の機能も伺いながら、必要性を判断して対応させてもらいます。」と答えたのである。

後見人の知識が少しでもある施設は、リソースの視点をもち、後見人を施設の機能を補完するものとして、サービス計画を作ろうとしてくれる。私も介護計画等に、存在やサービス内容を記載して頂くことはを周囲に推奨し、関わりの具体化を行っているが、この際大事な点は、後見人は実際の身体機能を補完する援助者ではなく、判断を支援(代行)する者という基本の部分である。

私は、状況が見えない施設生活者のアセスメントのため、または、自閉傾向が強い言葉数が少ない方のニーズを掘り当てることなどを目的に、買い物や釣り、写真療法などで一緒に外出し、そこで垣間見られた価値観をもとに日々の対話の個別性を高める視点を設けたり、進路について検討していく方法をとったりしている。それは、施設で退屈している本人を、介助して、気分転換させてあげるという考えではなく、アセスメントの行為なのである。

後見制度に関心をもっている施設の相談員でも、事実行為という概念は知らないことが多い。後見制度は、上記のように直接何かをしてあげるため後見人が動くことは事実行為といい、契約などの判断をすることについて法律行為という。後見人の行うべき業務はこの法律行為であり、事実行為は行わないとされている。事実行為は、それを生業としているヘルパーなど適切なかたに後見人が依頼する(契約)立場となる。

しかしながら、身上監護を後見の業務の中心においている社会福祉士であって、感情を丁寧に扱いたいという方針で行動している私としては、事実行為は必要と判断すれば、ばんばん行っているし、本人すら知らなかった感情や考えを掘り当てるような関わりは、後見人という近い存在であるからこそと、その部分にやりがいをもっている。この関わりが、外出をさせてくれる人=後見人は事実行為をするものというかんたんな勘違いを生む可能性があることも理解している。

何を行うにも、理由と根拠を周囲に理解してもらう取り組みは欠かせないということに尽きると思うので、少なくとも周りにいるケアマネージャー等支援者には、しっかり説明をして行きたいと思っている。

自己決定支援の考えが後見の領域でもここ数年で高まってきており、判断ができる内容や場面等アセスメントをすることが、さらに重要となって来ている。介護が昔あまりアセスメントせずに、行われていたことも思い出すが、過剰な支援の提供による権利侵害を無くそうとの考えは、その人の生い立ちや価値基準を知らずに実務をしている人が語ってしまうとしたら画餅となりえる。

法律行為は、その行為に至るまでの準備として後見人の事実行為も必要とするし、その準備においても、その人の価値基準等を知る関わりがなくして、行えないのである。

施設の人材不足や、リスクマネジメントから本来業務からはみ出た部分は家族にとの考えは十分に理解できる。そして、後見人は家族の代りという視点も理解はできる。しかし、本来の機能をうやむやにして安易な介護の分担とならない、自己決定のための関係者のスキルの成熟が今後さらに課題になると言える。

すくなくとも、事実行為がよく分かり、事実行為が=身上保護ではないという知識だけは、明確に伝える必要があると感じている。

また、対応が面倒ではない被後見人等を担当したいとの社会福祉士がいるとの噂が、アンテナの高くない私の耳にも届いてしまっている。これは、本稿で取り上げた内容をすべて、屁理屈と落としめ、何より社会福祉士の資格価値が疑われる発言だと思うので、同じ資格の仲間として、専門性を保って欲しいと願うばかりである。

注釈

1)後見人の業務には、財産の管理と身の回りのことについて取り決めて、生活を動かしていく身上保護(監護)がある。直接の介護等世話をすることではない。

2)入所を案内したり、判断する中心となる施設の相談員

 

 

 

遠足とノンバーバルな視点

心身障害児・者施設の遠足に、後見人として参加させて頂いた。今回で4回目となる。コミュニケーションがほぼ難しい本人との行動は、本人を良く知る為、ケアスタッフと共通的な視点を持つためには重要なことと思っている。サイドに大型リフトがついている大型観光バスに乗ることは、私自身もとてもテンションが上がるし、自然の散策、いちご狩りと毎回企画も楽しい。年に1,2回の貴重な本人の外出機会に、しっかり向き合っているとの印象をとても感じている。

遠足前に、本人を迎えに居室に行ったが、部屋に入った瞬間に本人と目が合い、「こんにちわ!」と挨拶すると、「うー!」と大きな声を出された。調子は変わりなく元気だなとの表面的な行動の確認という意味合いが強く、私自身あまり意識しないやりとりだった。ただ、タイミングが良かったのだと。

しかし、それを見ていた同室者のお母さんは違ったようで、「いつもは無表情で、元気がなく、声も出さないのに、反応し、表情もぱっと変わった。やっぱり、自分の身内は分かるんだ。このお子さんは大人しくて…(たくさんお話頂く・省略)。」

日頃から意識的な面接を行うことと同じくらい、ノンバーバルな視点は持つようにと自分でも心がけていることだが、この場面で感じたことは、ノンバーバルは好き・嫌い、イエス・ノーの自己決定の道具的なコミュニケーションの視点を超えるものであるということだ。障害をもったお子さんに、毎日のように施設に訪れ、長いスパンで愛情のまなざしを注いで来た母親の視点は、すべてを受け入れ、すべてを包み込むものであるし、良いことをたくさん探そうとの視点、それを共有しようとする姿勢に溢れていると感じている。

受け取ったノンバーバルな表出は、正解が分かりにくいものである。しかし、そんなことはどうでもよく、本人をしっかりみつめて、よそ見をしないで対応して欲しいとの親の気持ち、その子らしさを小さな変化からでも感じ取って欲しいとの親の願いが根底にあり、高齢となった親がその価値観の一片を後見人に分けてくれたものと受け止めている。

なかなか訓練の場が乏しいノンバーバルな視点は、今回、周囲の意味づけ、語り直しなどで支援の力を強めたり、方向性を与え、その意識のあり方が、話ができない本人にも、良いものとして伝わっていくということを実体験することができた。これは、親であれば当たり前の関わりかもしれない。しかし、支援者としては、ものすごく意識しないとできないことでもあると再認識した。

遠足前に色々な想いを巡らせることとなったが、遠足ではバスの中の楽しいレクや現地の屋内施設では、保育士さん、看護師さんが2人で抱えて滑り台を体験させるなど、想いがつまったスケジュールが用意されていて、親の信頼が無いと難しいと現実的な思いもあったが、驚きと笑いにただただ私もとりこまれた1日となった。

想いを口に出してみる事、まずはやってみることという基本的な行動についても考える日となった。

スーパービジョンの評価と問診票

認定社会福祉士制度上のスーパービジョン(SV)では、今くらい頃は、1年の評価を行うバイジーが訪れます。年6回のSVと事前面談、そして今回の評価の面談と実際には8回バイジーとお会いするわけですが、認定に提出する一連の書類が一年分整ったとの安堵感と一年やり通したとの達成感が言葉には無くても伝わって来ます。

この評価は、1号様式というソーシャルワーカーとしての実践でやれていること、やれていないことのスケーリングとその具体的状況を記載するシートの変化を見ていくものですが、当初は訳が分からないとの1号様式でも、毎回のSVの中でどこを扱ったのか確認する作業により、評価時にはなじみのシートになっているという状況です。そのため、事後評価は書けている様子があり、スケーリングのレベルが下がったとしても、なぜ下がったかの説明をうまく書いて頂くなど、自分のためのシートとして使える方が増えたとの印象です。

わたしは、様式を丁寧に使い、そこになぜそうなのかとの考えや思いも入れてもらうことにしています。それによりジレンマやなぜやれていないのかのカギが共有できるとの視点を持ち、SVで扱っています。併せて、バイジーがしっかりできるようになればすぐにバイザーに成れるとの考えを持ち、バイジーにはのちのちにバイザーに成るように関わって、同様の視点ももってもらえるように対話しています。

規定の様式の他に、わたしはスーパービジョン問診票というシートをつかっています。これは、SVがバイザーのものであったり、バイジーにとって有益ではない内容となることを予防するため、なにより、ほかで語ることが無い専門職としての想いを丁寧に扱うために設けています。シートはなりたいSW像や嫌なSW像といった当初の想いを記述してもらう項目と、業務外での不安など背景を捉える項目、今日の疲労度や今日のSVの満足度というスケーリングとなぜがとの詳細欄から成ります。

当初は、書きなれない内容に戸惑われる様子もありますが、想いのままに書かれ、その開示された内容について深い想いを共有します。SWは機械でも道具でもありません。その個人の価値観とSWとしての価値観を併せ持つことでの悩みや支障を抱えて実践しています。SVはカウンセリングではありませんが、1号による柱を維持しながら、行動の源となる想いを取り上げなければ、有益なSVにはならないとの実感をもっています。

問診票に書かれた、SVの満足度とその理由など、バイザーへの通信簿を丁寧に拝見しながら、これからも続いていくSVに向かっていきたいと思っています。

認定社会福祉士スーパーバイザー登録更新

早いもので、東京で社会人学生として学びながら認定社会福祉士を取得し、その翌年から手探りで開始したスーパーバイザーも有効期間が満了し、登録更新となった。スーパービジョンをスーパービジョン論としてみた場合には、それはまさに実学と言え、技術と知識を活用する専門職の生きるための総合力を問うものである。実際のSVでは、クライエントの存在をいつも傍らに置き、いかに良質な支援を行うか、そうなるための姿勢とはどんなものか、専門職として生きる個人としての感情や背景への対処はどうあるべきかなど、社会福祉士が社会福祉士であり続けるための問いを協働で行っている。「時間が無いから」、「学びより実践あるのみ」とSVをさける人がいる。初年度のSVは手順を飲みこむために、またバイザーとの関係を意識しすぎるなど夢中であることが多いと思われるが、その段階を超えると、本当に自分のためにある特別な時間の意義を深く実感でき、共に決めた目標を達成するためにどのように時間を進めて行くか、視界が徐々に開けていく感覚を味わうことができると思う。またSVを行うことにより苦手で自分には関係ないと多くのひとが考えがちのSW理論の実用もさまざま取り組めている。ぜひとも、最初は首をかしげながらでもSVに足を踏み入れ、資格のアイデンティティとはどんなことかなど、そこでしかできない対話を味わって欲しいと思う。